郡山町遊廓(赤木遊廓・桑畑)を同定する

福島県

暇人の、暇人による暇つぶしの文献調査と現地踏査に移転しました。

郡山町遊廓(赤木遊廓・桑畑)

『全国遊廓案内』の福島県の項目を見ていく。福島県内に関してはそこそこ詳しい時分だけれども、それでも遊廓なんてあったんだ…と思う所が多い。 ちょっと面白そうだし、集中して福島を調べてみようと思う。

まず、最初の確認。『全国遊廓案内』には、

郡山町遊廓 は福島県安積郡郡山町に在って、東北本線郡山駅から約八丁、乗合自動車の便がある。
郡山は猪苗代湖の水を曳た疎水事業が竣成したので、発電所、カーバイト会社、東洋曹達会社、日本化学工業の工場、東北電化の工場、岩代紡績、橋本製糸等の各種事業が発展して、人口も三万に近い。貸座敷も十軒程あって、娼妓は六七十人居る。女は福島県の者が大多数である。店の様式は判明して居ない。娼妓は居稼ぎ制で、客の廻しは取つて居る。費用は一時間遊びが一円二三十銭位で台無し、御定りは二円、三円、四円とあって、簡単な台の物が付く。勿論此れで一泊が可能だ。
附近には開山公園があって、桜の名所として東北地方に有名である。花時には競馬をやって一層人気を呼起す。

『全国遊廓案内』,日本遊覧社,昭和5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1453000 より

とある。1丁は約100m(109m)なので、8丁というと800m。ソコソコ離れている感じ。とはいえ、今の地図で見ると北方面には逢瀬川より手前、西方面だと清水台は上るが虎丸町まではいかない。南方に至っては文化通りにぶつかるあたりまでという範囲になる。

この範囲では、もう当時の面影を地図から見つけるなんてのはほぼ不可能。 そうなると、資料を探すしかないと覚悟して調査を開始します。

まずは検索…

今回はかなり手抜き。 一発目からGoogle先生にお世話になろうと思います。とりあえず「郡山 遊廓」などと検索です。 まぁ、情報の中身の真贋はアレですが、Wikipediaに「郡山遊廓」の項目が立っており、そこには

郡山遊廓(こおりやまゆうかく)は福島県安積郡郡山町相生町(現・郡山市赤木町)にかつて存在した遊廓。赤木遊廓とも呼ばれる。

との記述。

現在の地図で見ると、この辺りになります。距離も駅から8丁というこで距離的に文句なく一致しています。

『郡山市史 第5巻 (近代 下)』

さてさて、大体こんな感じであたりだろうという予想は立つものの、Wikipediaの情報をうのみも無いなと、本腰を入れて文献調査。ということで、Wikipediaに記載されている「郡山市史 第4巻」が参照されています。これは見ることができませんでしたが、たまたま、近代 下の方が確認できました。そこには、

大正五年の『郡山現勢』には、つぎのように記してある。
 「郡山町紳士紳商の組織になるを乙卯倶楽部と云ふ、室内に遊技の設備あり、新聞雑誌等高尚なる娯楽品総て完備す北町にあり、玉突場は燧田にあり旭倶楽部と称す紳士紳商の遊技場として設しものなり、劇場は大正座(北町)郡盛館(北町)消水座(北町)等おり、清水座常に演劇を以て開場すれど建物古く清潔を欠く、大正座・郡盛館は活動(映画)を常設す、郡盛館は寄席なり、他に共楽座(中井堀)ありしが現時は倉川となる。
 遊廓は赤木町台にあり。俗に桑畑と称する処なり、眺望頗ふる絶佳にして妓楼三軒あり、嫖客常に絶えず、娼妓の収入も又他に比し多額にして月二〇円以上なり、
 料理店は街内に敗在す、料理調進等漸次東京風にならひ相当繁栄を見る、宮戸川・布袋館・大谷家・川煇・春日など共の重なるものにして何れも料理の他に芸妓を抱へ置く其の数四〇名なり。」

郡山市 編集『郡山市史』第5巻 (近代 下),国書刊行会,1981.12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9642400

なんて書いてあります。これを見るに『郡山現勢』を見てみれば、さらにいろいろわかりそうな感じです。

『郡山現勢』

つことで、さらに『郡山現勢』を確認してみます。

        遊廓-料理店-藝娼妓
遊廓は町の西赤木の高臺にあり、俗に桑畑ご稱する處なり、眺望頗ぶる絶佳にして妓
樓三軒あり、嫖客常に絶えず、娼妓の收入も又他に比し多格にして月二十圓以上なり
料理店は街内に散在す、料理調進等漸時東京風にならひ相當繁榮を見る、宮戸川、布
袋館、大谷家、星煇、春日など其の重なるものにして何れも料理の他に藝妓を抱へ置
く其の數約四十名なり。

三浦不非 編『郡山現勢』,公益社,大正5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/936111 より

「遊廓は町の西赤木の高臺にあり」とありますので、東端と北端側は崖になっているので、その辺り以外のエリアってことなんでしょうね。 なんて、思いつつ、さらに資料を見ていると、

三浦不非 編『郡山現勢』,公益社,大正5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/936111 より

ありましたね地図。時代的に国道四号線はまだなく、旧奥州街道があるのみ。駅前付近もなかなかに違いますねぇ。これを基に同定するのはなかなかい大変かなぁ。

新旧地図の同定

まず、昔の地図のところで場所が不変っぽい場所を見ながら同定していきます。

駅の位置は不変なので、ここを基準に今の地図と並べてみます。そこで見覚えのある地名を突き合せていきます。郡山でも伝統のある病院である「寿泉堂綜合病院」がこの時代にすでにあるんですね。そうなると、病院の前の道は「フロンティア通り」だということで、基準となる道として線が引けます。

もう一つ、郡山と云えば善導寺。これも古い地図にもありますので、同じようにマークしてみます。今だと、善道寺の前は旧国道四号線、現在の県道17号線になるわけですが、この当時はまだ道が引かれていないのがわかります。

そうなると、善道寺と寿泉堂の間で横一文字に抜け、逢瀬川を渡っているのが旧奥州街道。県道355号線ということで、これを位置確定のために線を引いてみます。その線が正しいかどうかの確認の意味を含め、「大正座」と書かれているところ基準にそこに沿った道にマークしてみます。この大正座は知る人ぞ知る、今は無き「大正館」ですので、引いた線はアーケードを突き抜ける道路と云う事になります。

さて、そろそろ本丸。遊廓と書かれている場所は、愛宕神社よりも北側、特徴的に伸びる斜めの道よりも右側で東西に貫く道の北側。

此の斜めの道は、旧星総合病院脇、阿邪訶根神社の西側の部分から延び、橋があればそのまま現在の奥羽大学の下まで伸びる道、会津街道だと思われます。幾度となく拡張と付け替えが行われていて微妙にわかりにくいのですが、この道は大町1丁目で旧奥州街道とぶつかります。

さぁ、ここまでできると、遊廓に接する道路が見えてきます。

そう、日の出通りを進んだ先。ちょうど字界を通る道沿いってことになります。

『消えた赤線放浪記 その色町の今は』

そろそろ、手元の紙資料を確認してみます。

消えた赤線放浪記 その色町の今は(木村 聡)を確認。p.104にある 『[福島県郡山市]郡山』を読んでみる。初見だとそう思うよねぇ。って郡山の風俗系の話があり、そこから旧遊廓へ。言葉の数は少ないが臨場感があって面白い。でも、肝心の場所を特定するにはいまいち。唯一追加でつかめた情報は遊廓に関する写真。遊廓の門があり、そこに映り込む「一登苑」という看板。そして遊廓アルアルの「門から太くなる道幅」。あとは、この情報を基に地図から探すしかないですね。

地図から探す。

キーワードたる「一登苑」で地図検索。GoogleでもYahoo!でもヒットなし。普通に検索すると郡山・赤木町遊郭 – DEEP案内不動産部がヒット。そこには門もホテルも解体済みとの事。うーん、これじゃ振り出しだなぁ。

ただ、もう一つ、エキテン 一登苑(郡山市赤木町)の登録があって、「一登苑」の住所が「〒963-8006 福島県郡山市赤木町14-15」って住所が表記されています。

うわぁ、ちゃんと店の前の道の道幅が広がってます。こりゃビンゴっぽいですね。

消えた赤線放浪記 その色町の今は(木村 聡)のP.109にある写真と同じになるようにストリートビューで確認。印象が違って見えますが、右側の電柱にある住所表記が一緒なので、同一の場所であることがわかります。

『郡山市史 第5巻 (近代 下)』

あとでごにょごにょしていたら、Wikipediaのソースになっていた「郡山市史 第5巻 (近代 下)」に当たれたので確認。

娼妓と相生町移転
 郡山は宿場町で、江戸時代から相当数の娼妓(飯盛女)がいた事は前からよくいわれている。明治五年、政府は「人身売買禁止令」を布告した。この時、郡山の三七軒の旅籠屋は、抱えの女たちを解放した、彼らが何人ぐらいの女を抱えていたかは明らかでないが、たとえば宗形弥兵衛は「飯売并水仕女共十二人」を解放している。この少し前の四年に白河県は、病院入院費用として飯売女たちに一日一人百文の積立金を課している。この資料から当時の飯売女をみると、四年には一二〇人からの女がいた事がわかる。一軒平均四人からの女を抱えていた。ところが、六年の旅籠屋女の税金課税から人数を割り出すと、一四〇人以上の女たちが抱えられていた。
 この女たちの衛生検査がいつから始まったか、知り得ないが、かなり早い時期に実施されたようである。第178表は、二十年代以降の娼妓検査表であるが、ほとんどの娼妓たちが病気にかかっている事が知れる。これらの検査には、医師たちが交代で当っていた。検査場所は、町役場が当てられていた。
 三十年から遊廊移転問題が起こり、三十四年には赤木にまとまって移転した。この問題は、町民に大きな反響をよび、本町と大町とで誘置運動を起すところさえ出る始末であった。このため、なかなか移転地が確定しなかった。この候補地には、赤木と高石が上げられていたが、町議会の協議の結果赤木に決定した。そして、その町名も「相生町」と命名した。一般には「新地」として知られ、現在も石の門標が入口に残っている。このために、その後は相生町の遊廊内で検査が行なわれた。

『郡山市史』第4巻 (近代 上),郡山市,1969. 国立国会図書館デジタルコレクション P.560-P562より

こう見てると、旧奥州街道沿いに店を張って居た旅籠の飯盛女を元に発する貸座敷業者が相生町に移転した。その際に、本町と大町が綱引きをしたと。本町と大町は奥州街道に沿うようにある地域で、停車場の西の部分になる中町を挟んで南北。街道沿いはそれで潤ったからそのままにしたかったという話なんだろうなぁと想像されます。

そんなところを確認してたら、数ページ後ろに全景を写した写真。

『郡山市史』第4巻 (近代 上),郡山市,1969. 国立国会図書館デジタルコレクション より

確かに、この写真を見ると、通称で桑畑とか言われているのがよくわかりますね。今の郡山の景色からは全く想像がつかない新開地の絵。なかなかにインパクトがありますね。

訪問してみる?

痕跡は見事なまでになにもなさそうです。 まだ残っているなら急ぎですが、こうなると急いでわざわざ訪問するまでもなさそうであるので、何かの機会に訪問でもいいかなぁ。といった感じですね。

使用した資料

『全国遊廓案内』,日本遊覧社,昭和5. 国立国会図書館デジタルコレクション
三浦不非 編『郡山現勢』,公益社,大正5. 国立国会図書館デジタルコレクション
木村 聡 著『消えた赤線放浪記 その色町の今は』,ミリオン出版,2005年
『郡山市史』第4巻 (近代 上),郡山市,1969. 国立国会図書館デジタルコレクション

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