飯坂若葉遊廓(遊廓若葉之里)を同定してみる

遊廓

暇人の、暇人による暇つぶしの文献調査と現地踏査に移転しました。

飯坂若葉遊廓

ざっと、例の本を見ていて、気になった「飯坂若葉遊廓」を調べてみようかなと思った次第。

飯坂温泉自体は何度か行ったことがあるものの、遊廓っぽいものなんてあったかなぁ?どうかねぇ。と思ったのです。

飯坂若葉遊廓 は福島県信夫郡飯坂町若葉新地に在つて、東北本線伊達駅から私鉄信達鉄道に乗り替へ、飯坂駅で下車する福島市から自動車で行つても卅分で着く。
温泉場で、福島市及此の附近一帯の歓楽境と成つて居る事は、若松に東山温泉があり、松本に浅間温泉があると同様である。如何にも温泉場らしい気分の溢れて居る処で、福島へ遊びに行けば必らず茲へ案内するのが、殆んど土地の習慣に成つて居ると云つて善い程だ。目下貸座敷が七軒あつて、娼妓は約五十人、芸妓は此れに劣らない程居る。店は写真店で、娼妓は居稼ぎ制、遊興は全部廻し花制に成つて居る。費用は三円、四円、五円で台の物が付き、四円からは本部屋である。

全国遊廓案内

現代の地図から推測してみる

場所は「福島県信夫郡飯坂町若葉新地」となっています。

ここでいう「福島県信夫郡飯坂町」というのは、Wikipediaによると飯坂町 (福島県)と云う事で、現在の福島市飯坂町。

この範囲で若葉というキーワードで場所を探してみますと…

地名としてはこれが該当っぽいですが、さてさて本当にそうなんですかね?

過去資料に当たってみる

今回もまたこたつ調査なので、使うのはインターネットで使用できる「国立国会図書館デジタルコレクション」を活用します。 一部にインターネット公開ではなく、図書館間での送信というのもあるので、その場合は利用できる身近にある図書館で確認します。

飯坂湯野温泉遊覧案内

飯坂湯野温泉遊覧案内を確認したところ、「遊廓若葉之里」という項目で次のように説明されています。

遊廓若葉之里

 飯坂町の遊郭は之れを若葉の里と称し、名湯波来湯の直上、十網橋より飯坂温泉第一の花の町花のトンネル花岡町に至る飯坂第一の大通りの真直中、摺上河畔飯坂町内第一の景勝地を占め、各楼各皆な其の楼前の断崖に専属の内湯を有し、浴客遊覧者をして頗る奇異な念を抱かしめて居る。
 過去を按ずるに此の里今こそ飯坂町の中心目貫きの場所に位置すれ、三十年前までは狐狸の往来さえ自由ならぬ場末への断崖で、明治二十一年飯坂町の大火を機として温泉区内より此所に逐ひ込められたもので、飯坂が今日の状態に移り行き開け行くものとは、当時誰しも想像し能はなかったのである。
 由来欧米人の貿易植民の途は宣教師に依て開かれ、我が国人の夫れは常に遊女売笑婦に依て先導せられ、何時も彼れ等が其の先駆を為せることに省みれば、此の里の今日ある所以も別に怪やしむに足らざるべきか。矢張り東洋君子の国の女ならでは夜は明けず、眼もあかぬ。
 今はその営業者と楼名を掲ぐれば次ぎの如くにして、笑婦の数は固より一定せざれど本稿締切りの日の現在は忠臣蔵の勇士の数と同じく四十七名、娼楼は北より南へ順位に数えへて。

三更楼 樋口ヤス
巳桝楼 片岡モヨ
石川楼 芳賀幸作
栄楼  阿部サワ
澤又楼 鈴木倉吉
池田楼 池田広治
松月楼 コン
以上

石塚直太郎 著『飯坂湯野温泉遊覧案内』,飯坂湯野温泉案内所,昭和2.より

「名湯波来湯の直上、十網橋より~」とあります。

名湯”波来湯”の当時の位置というのもありますが、現在の波来湯から波来湯公園のあたりであると推測されます。公園の場所が源泉ですので、いずれにしろこの一塊の場所内であると推測できます。

十網橋は、現在の福島交通線の飯坂温泉駅の駅舎脇にある橋、当時はここに駅舎はなく、全国遊廓案内に「東北本線伊達駅から私鉄信達鉄道に乗り替へ、」とあるように、当時は伊達駅からの鉄道路線が敷かれており、駅は摺上川東岸の現在は福島交通の月極有料駐車場になっている場所が駅だったとされています。

この記述から、「電車出来て、十網橋を渡り、波来湯の先まで行く。」という情景が浮かんできます。「過去を按ずるに此の里今こそ飯坂町の中心目貫きの場所に位置すれ、三十年前までは狐狸の往来さえ自由ならぬ場末への断崖で」という記述も、当時の駅が対岸にあったことを考えると、街外れの寂しい場所に遊廓がスタートした旨の記述も納得はできるものです。

総合すると、現在の若葉町が若葉新地であったと考えられます。そのうえで「各楼各皆な其の楼前の断崖に専属の内湯を有し」とあることから、現在の「穴原十網線」側に向かって店を張って居たという光景までは想像できます。

飯坂湯野温泉史

追加で『飯坂湯野温泉史』を見ると、

若葉の里 湯野愛宕山に相封し、摺上川の西岸に兩門靑樓を劃するもの、之を遊里若葉の里と爲す、往時未だ町とならざるの時、到る處に湯女なる者あり、混堂浴槽の間に出入し、風俗を亂たすを以て、明治二十一年此地に火災ありしより、特に一區劃を爲すに至れり、松月、池田、澤又、榮、石川、三桝、三更の七樓あり、各樓共皆摺上 の河畔に專屬内湯を有す。

中野吉平 著『飯坂湯野温泉史』,中野吉平,大正13.より

「湯野愛宕山に相封し、摺上川の西岸」とあるので、場所的には正しそうです。そして、書かれている楼の名前もほぼ一致しています。差異というと巳桝楼と三桝ですが、これは共に「みます」と読めることから書き間違いの類ではないかと推測できます。

『飯坂湯野温泉史』には地図もあったので、解像度が微妙で読みにくいですが、何とか頑張ってみてみると、

中野吉平 著『飯坂湯野温泉史』,中野吉平,大正13.より

中野吉平 著『飯坂湯野温泉史』,中野吉平,大正13.より

摺上川沿いに、かろうじて若葉と読める場所があり、現在の「穴原十網線」沿いの川の崖の反対側、ここに四角の建物を表すと思われる塗りつぶしと共にいくつかの名称が記載されています。 これを確認すると、上から三更・ (文字記載なし)・ 石川・ 池田・ 澤又・ (文字記載なし)・ 松月と書かれているように見え、まさに遊廓として書かれている楼の名前に一致しています。

写真集明治大正昭和福島 : ふるさとの想い出41

別件で本を確認していたところ、当時の写真が載っているものがありました。

253 若葉町の遊廓
 飯坂温泉の遊廓も、かつては湯町や湯沢など、「湯」を中心にした旅館街にあったといわれる。明治二〇年の飯坂大火後、これらの散在してあったものを移転させ改築させたのが若葉町の遊廓である。摺上川を眼下にした、いわば一等地に、この社会悪は公認されて、堂々たる廓が軒をならべ、夜の温泉街に紅燈をともした。戦後に福島や瀬上の新町とともに廃止され、解散されたことはいうまでもない。

大村三良 編『写真集明治大正昭和福島 : ふるさとの想い出41』,国書刊行会,1979.7. 国立国会図書館デジタルコレクション より

そうですね。右側が摺上川で左側にあるのが廓。そして入り口には柱。これは現在の駅のある方面から向かって撮影している状況ですね。これは。

訪問してみる?

飯坂温泉のこのエリアは訪問したことはありますが、特筆するような「なにか」があった記憶が全くありません。むしろ旅館かホテルがあったであろう空地が目立つだけで、さびれた温泉街の残骸の様な風体だった記憶。

実際にストリートビューで確認しても、同様ですねぇ。 痕跡は見事なまでになにもなさそうです。 こうなると、急いでわざわざ訪問するまでもなさそうであるので、何かの機会に訪問でもいいかなぁ。といった感じですね。

使用した資料

『全国遊廓案内』,日本遊覧社,昭和5. 国立国会図書館デジタルコレクション
石塚直太郎 著『飯坂湯野温泉遊覧案内』,飯坂湯野温泉案内所,昭和2. 国立国会図書館デジタルコレクション
中野吉平 著『飯坂湯野温泉史』,中野吉平,大正13. 国立国会図書館デジタルコレクション
大村三良 編『写真集明治大正昭和福島 : ふるさとの想い出41』,国書刊行会,1979.7. 国立国会図書館デジタルコレクション

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